2017年01月30日

感想文:20歳の国『花園RED』その1

2003年のラグビーワールド杯。決勝戦。
オーストラリアVSイングランド。
爆発的身体能力と当たりの強さを見せるワラビーズ(オーストラリア代表の相性、ニュージーランドがオールブラックスね)に対し、天才的キック精度を誇るエース、ウィルキンソンを中心に得点を重ねるイングランド。勝敗は延長までもつれ込む。
そして延長戦、残り30秒。
ボロボロの身体で走り続け、当たり続けたオーストラリア代表の頭上に蹴り上げられたボールは、美しい放物線を描いた。
スタジアム中が息を呑んでその行方を追う。
時が止まった。
決勝点のドロップゴール(ペナルティキックでなく、試合を流れの中でのゴールキック。スーパープレイの一つ)が決まった瞬間、興奮より先にどうにも切なさを感じた。あれだけ駆け回り、身体を張り、削り削られた選手たちが、それでも超えられなかった/超えさせなかった一線を、ボールだけが軽やかに飛び越えて行く。敗れたオーストラリア代表だけでなく、イングランド代表のフォワード陣にも若干の悔しさを観たが、おそらくおれの思い過ごしだろう。
でも、あの熱狂と表裏一体にある"切なさ"を、死闘を演じたプレイヤーが共有していたとしたら。

それこそ"ノーサイド"だろ、ユーミン。

20歳の国『花園RED』のラストシーン、そんなラグビーの原体験を思い出した。

「スポーツVSアート」みたいな図式がちょっと前に話題になったが(アレはアレで理解できる)、おれはスポーツとアートに大きな違いを感じていない。というか、そこに観たいもの、見い出したいものは共通している。"文学"だ。ラグビーも映画もプロレスもSFもサッカーも漫画もアメフトも時代小説もeスポーツもロックも、そして演劇も同じだ。先に述べたエピソードのような、興奮と寂寥がないまぜになった、語れるワンシーン/ワンセンテンス/ワンフレーズが、つまり"文学的一瞬"を感じるために観ている。

(こんなことを書くとすぐ「そうそう作品は全体の構造じゃなくて強烈な一発があれば良いよね」とか言い出すヤツが現れそうだから敢えて言っておくと、その「一発」のために全体の構成があるからな。フィニッシャーの前の組立なんだよ大事なのは。それが前提。)

『花園RED』、死力を尽くしてそれでも敗北する面々の、ゴールに吸い込まれるボールの軌道を追う表情には、確かに"文学"が存在した。そこには悔しさと熱狂と、ある種の達成感、違うな達観があった。それらがすべてあった。あの日のオーストラリア代表とイングランド代表のように。そしてもう一つ、射精のときも多分あんな表情なんじゃなかろうか、と思うのである。

(その2に続く、ハズ)




posted by 淺越岳人 at 12:07| Comment(0) | TrackBack(0) | ラグランジュプロジェクト | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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